カスリン台風の記憶
1947年、久喜を襲ったカスリン台風を、体験として知る世代の方からお手紙を頂きました。
手紙画像最終ページの左端にご自身で書かれているように、震える手で懸命に書いてくださったようです。
後世に伝えていくべき内容と思いますので、デジタルアーカイブとするべく、掲載します。※個人情報となる部分は伏せています。
どうぞご一読ください。
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前略
昭和の人間なので、お手紙にします。
台風19号の惨状について
「以って他山の石」についてです。
私は◯○在住。
旧久喜町に75年住まわせて頂いております。
当然、久喜小、久喜中卒業です。
私共の世代は昭和22年のカスリン台風による水害の体験者です。
当時5歳、小学校入学の1年(半年)前のことです。
当時の住居は現在の武蔵野銀行のパーキングになって跡かたもありません。
当日は朝7時半ころ、NHKによる臨時ニュースがありました。
利根川が(当日未明)に大利根町や栗橋付近で決壊とのこと。
8時過ぎには、学校に行った1歳上の姉も帰宅。父は久喜始発だからと会社に行っ
た後のことです。
近所の若い衆によると、水は愛宕神社まで来ているとのこと。
お隣のご隠居さんに母が聞きに行きました。
御隠居さんが言うことには
「明治の末に権現堂堤が切れた時、ここは床下で水が 止まったから大丈夫念の為、畳だけは上げておけ」との嬉しい言葉。
10時頃には駅にも水が来ていて歩けない。
床上まで水が来ているよとのこと。
我が家にも水がヒタヒタと迫ってきました。
お昼には、玄関の敷居(高さ15センチ)を超えて床下20センチ、3時には床下10センチ
。
夕方5時頃、やっと水が落ち着いてこれ以上増える事はありませんでした。
父も白岡から歩いて来たそうでずぶ濡れで帰宅。やっと安心しました。
夜は畳6枚を縦に並べてその上に1枚を横に。9月末で毛布で寝ました。
まだ5歳のこと故、恐ろしいとか、命の危険を感じたということはありません。
2.3日あと、母と町中の様子を見に行きました。
駅前通り住還は数センチの水が低い方へと。
御陣山、役場のあたりは殆ど水はありません。
天王院のあたりを右に行き、現在の本町郵便局のあたり迄いくとその先は茶色い海。
わら屋根が浮かんでいるだけでした。
五領の交差点あたりも勿論です。
この水害は後が大変でした。
その当時は各家ともトイレはポットン式。畑には野壺(知らないでしょうね。ウンコ溜めです。肥料として農家の方が使用)
これが一緒に流れてきていますので、住居は床板をはがし、石灰とDDT(町から配給)をまかないと湿気が香りが抜けません。
現在の住居は土台がコンクリート風通穴があるだけですが、その頃は土台の上に柱を立て床が乗っていたものですから水は入り放題です。
縁の下なんて言葉知らないでしょ。
薪(炊事用)をおいておきます。
水位の方は最近配布のハザードマップの通り、六間道路、サカエ薬局付近の電柱には私の胸あたりのところに印がついていました。
駅はプラットホームの上、7.80センチ位、これも印がついていました。東北本線が開通したのが1か月後。やっと交通が回復したのです。
道路の方は自動車なんて馬力の時代。道には昭和20年代は馬糞が落ちていたもの
です。
(中略)
忘れ去られていく水害の記憶。老婆心ながらペンを取りました。
後世の方々、現在若い方々にも知って頂きたく存じます。
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